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徒然なるままに・・・。

「古池や蛙飛び込む水の音」松尾芭蕉

ある敬愛するゲシュタルトセラピストが、私に伝えてくれた言葉です。

この句は、それまでの和歌や連歌の歴史において「蛙」を詠んだものは極めて少なく、詠まれる場合にもその「鳴き声」に着目するのが常であったものを、「飛び込んだ蛙」ならびに「飛び込む音」に着目した、それ以前に例のない芭蕉の発明であるそうです。

その方に、その句を私に伝えた意図をしっかり確認すれば良かったのですが、何となく確認しませんでした。そのお陰か(笑)、その言葉は私の中で生き続けています。つまり、自分でその言葉の意味を自分なりに探し続けている訳です。

私は以前、自分の声がトラウマを持っていると言われたことがあります。それ以来、自分の発す音や言葉には意識を向ける様になりました。

心理学を学んでいると、「自分らしさ」を持っている方が「いい」「自然の理にかなった」事の様に思うことがあります。すると、「自分らしさ」をどことなく発揮出来ていないと “感じる” 自分を、他人と比較して「駄目だな〜」と落ち込んでしまいがちです。私もこの繰り返しでした。自分の声も言葉も、どこか「自分らしく」ないようで、「人に合わせたつもりになっている音や言葉」を周りに見透かされ、「自分は無いのか?」と問われている様で、内省する日々・・

「どうやったら抜け出せるのだろう・・・」

そんな時に、頂いた芭蕉の俳句のメッセージ。

言葉・・・
庶民・・・
古池・・・
蛙・・・
飛び込む・・・
水・・・
音・・・
余韻・・・
侘び寂び・・・

云々・・

昨日、研修の一環で、違うゲシュタルトセラピストとフォーカシングのセラピストからワークを受ける機会がありました。

そこでは、

「腕の突っ張りが気になる」という、腕をよく使った後にもありがちな ”腕の感覚” からのワークでしたが、最終的に自分の「さみしさ」や「自己」との出会いがありました。

腕の突っ張りを感じている私の姿をモデリングしてくれるセラピストの姿を観ると、“私は”、何かに耐えているようであり、とても悲しげで、寂しげでした。腕の突っ張りは、自分が何かに「耐えていることと、寂しいこと」を気づかせてくれました。

ワークの中でのゲシュタルトセラピストの存在は、思えば、その方自身であり、私の母であり、祖母であり、パートナーであり、父であり、妹であり、子であり、クライアントであり、自然であり、私自身であった様な気がします。その方の全存在を用いて、私と共にいてくれた感じです。

ゲシュタルト療法のゲシュタルトとは、ドイツ語で「全体・統合」等を表す言葉です。正に、私の中にうごめく寂しさと存在の有り難さと愛しさなどの「全体・統合」を感じる体験でした。

一方、フォーカシングのセラピストは、とてもユニーク(敬愛を込めて)でした。
私が発している言葉や雰囲気、仕草などから、セラピスト自身の存在を通して、感じたこと、気づいたことを伝えられました。

「欲張り」

私を知る多くの方が、その言葉に頷くのではないでしょうか。
私を表す言葉として・・・。

なぜなら、私はそう見えるらしいです(苦笑)。
本人は、そのつもりは無いのですが・・・。

それは、もしかしたら、小さな頃から、皆と同じ様に「○○したい」「○○してほしい」想いを、「自分が出来ること、努力出来ることはチャレンジする」ことで補っていたので、他の人からすると、私は完璧主義で、真面目で、いい子で、欲張りの様に見えるのでしょう。至って、本人は懸命です。

そこに周りから、愛情を持って「頑張らなくていいよ」とくる。私を思ってくれるのは嬉しいけれど、「じゃ、どうすればいいの?」「困った!」というのが、30代前半迄の私のパターンでした。何しろ、努力は得意だけど、自信がないので、「努力しさえすれば、生きてゆける」が私の人生の脚本でしたから・・。

それは、小さい頃、お父さんやお母さんが家にいてほしいとか、誕生日やクリスマスのプレゼントを一度でいいから欲しかったとか、家にいて、ちゃんと面倒をみてくれる人が欲しいとか、家族旅行に行ってみたかったとか、歯ブラシと歯磨き粉が家にあればこんなに虫歯にならなかったとか、家が貧しくなければとか、普通の学生生活をとか、まともな家であった欲しかったとか、わがままを言うお友達なんて甘えているとか・・・

自分の中の悲しみや嫉妬心が大騒ぎ。それに、潰されるのは嫌なので、なんとか “あれもこれも” 頑張ることで昇華させようとしていました。

それが、昨日、ワーク中に「欲張り」。

「はは〜ん・・・そう来たか。」

以前の私なら「私のこと知らないくせに」と言う想いで一杯でしたが、昨日の私は、身体の奥で少しこの想いが反応しつつも(苦笑)、素直に「その通りだな」と思いました。

そのセラピストの私を映す鏡(存在)は、真実であり、歪みを感じませんでした。それを、その方は「追体験」と呼んでいましたが、そのことが私を素直にさせました。

「自分は何を懸命に求めているのだろう・・・。自分を嫌いで、そして、大事に想いすぎて・・・」

この春、臨床心理士の資格を取ることが出来ました。

この日本の社会にも、上記の方々の様に沢山の力のある援助者がいます。
つまり、私が援助なんてしようとしなくても、世の中はまわるわけです。

ただ、私の世界観をサポートし、理解してくれようとする敬愛する心理職の方々はいても、私の世界観に馴染む心理職や専門家の方とは、まだ出逢ったことがありません。それが私を不安にします。「その私が心理職をやっていていいのかな〜」と。

どちらかと言うと、哲学者とか、文化人類学者とか、宗教学者とか、各地の伝統文化の中に、自分に馴染む世界観を感じることがあります。それは、みんな多少ならずともあるのかな・・・。

いずれにせよ、それが私の個性であり、いつか、専門性に繋がる部分でもあるのだと考えています。そう思えなくなったら、私が心理職を止める時なのかもしれません。

「古池や蛙飛び込む水の音」

この句で、芭蕉はそれまでの習わしを一変し、俳句を庶民の世界にも広げることを可能にしました。

私には、そんな偉業は出来ませんが、何をしてゆくのでしょう?
そんな朝を迎えています。
とは言え、気づくとこんな時間。
仕事に行かないと。。。

私の中の “蛙” は大海でも目指しているのでしょうか。
海では生きれないのにね・・・。
もしかしたら、生きれる蛙(苦笑)?!

思わず「泳げたいやき君」という唄を思い出しました。
・・・「置かれた場所で咲きなさい」か・・・

それでは、徒然も程々に・・・。
行ってきます。


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